論文とは

修士論文を書き終えた。

日本の大学に入った時に自分が修士課程に行こうなんて想像もしていなかった。修士課程になんて行ったら就職が難しくなるよ、なんて声をちらほら聞いたりもしたし、研究なんてとてもとても遠い存在で何であるかも見えていなかった。私は文章を書くのが飛び抜けて上手なわけでもなし、特別好きなわけでもなし、果たして論文なんてものを書く先生はどんな生き物かと思っていた。そのうち就職や進路の心配どころではなくなって、生きるか死ぬか問題が私の日常の中心になった。毎日死ぬことを考えて、生き延びていた。20代の5年間を社会とまるで切断して、ネット上に思いの丈をぶちまけたり恥ずかしい詩を垂れ流したりしていた。東北大震災の時に、生きたかった誰かのために私が身代わりになれたらよかったと心から思っていた。自然は恐ろしい。精神的な疲れも恐ろしい。なんて身勝手な想いだったろうか。

大学にいた頃から、というよりもそのずっと前から思っていたことを実行した。外国で生活したいという想いは、英語の教師を母とオープンな精神を持つ父が影響しているのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。とにかく、一旦線路を踏み外した私は日本で再起するエネルギーを持ち得ていなかった。逃げたといえばそうだと思う。でも逃げて正解だった。「当たり前」が違う土地で、毎日とにかく必死で動き回った。1年が立った時に原因不明の高熱が10日続いた。あっという間に、論文を書くことの魅力に捕われて、いま振り返れば、自然な流れに乗って修士論文を書いていた。

スポーツも、絵も、小説も、料理も、科学技術もそうであるように、学問も昔からの一人一人の積み重ねと改良の末に今の形が成り立っている。料理は味わうことで、絵は見ることや描くことで、小説は読むことで、古人の努力や知恵や技術や感じたことに触れることができる。学問は、世界への視点を見ることができる。論理という公式でみんなが理解できるように、世界や現象の見方を説明しているのが、学問だと思っている。そして、その見方がより良い世界に貢献するといいなという願いが込められている(と私は思っている)。少なくとも、私はそういう希望も持って書いていきたい。

周りの応援してくれる人に本当に感謝でしかない。

私は1年よく頑張った。また少しずつ、できるだけを誠実に。

世界が少しでもよりよくなりますように。