三島由紀夫が『宴のあと』に描いたように、以前からお金で政治を動かすということは珍しいことではなかったのだろう。フランスではマクロン大統領は、イエローベスト運動で浮き彫りになったフランス社会の問題を「全てのフランス人に開かれた」議論をするという目的でグラン・デバ打ち出した。締めくくりとなる学者を集めた討議ではラジオがインターネット中継をした。結局、そのグラン・デバは国民と大統領との新たな解決策を模索する討議ではなく、全国民に開かれた討議という形を取りながらマクロンが自分の政策を全国に中継させたというような形に終わった。国家予算を投じた宣伝活動だ。日本では、政党が雑誌と提携して選挙間近の宣伝キャンペーンを始めたが、そこでは政党の政策さえも語られていない。一方で、同政党が国会の予算委員会の出席を3ヶ月も拒否して、国会の討議が選挙の大事な時期に行われていない。自身の党のために、国会議員の一番重要な重要な仕事をせずに、ただ国民から給与をもらって、次の選挙キャンペーンのために、政策を語らない人気取りの為に若い女性向けの雑誌のページを買ったのだ。

お金を持った人が勝つ社会、それを自分の努力おかげだけだと思わせてしまうような世界というのは、環境問題がよく映し出している。自分が良ければ、次の世代、今被害を受けているものたちのことはどうでもいいのだ。なぜなら、自分はお金と権力を努力で勝ち取ってきたのだし、そうでないものはその努力を怠ったのだから。社会階級の研究を見れば、生まれた家の収入や両親の学歴の子どもの学歴や職歴への影響は明らかである。子どもを大学に行かせるまでにいくらかかるか、奨学金をもらえるだけの低所得世帯であるのか、奨学金という名の借金を将来返し続けながら、どれだけの資産が築けるのか、大卒と高卒の最終的な地位の差の統計を見たことはあるか。

なぜトランプ大統領は富裕者であるかというと、父親が億万長者であったからだ。マクロンはなぜグランゼコールに行けたかというと、学資に費やせるだけの家庭に生まれたからである。私が今でも研究をしていられるのは、母親が堅実に貯金をして、私が海外の大学で生活するだけの資金を援助してくれているからである。

スタート地点は一緒でないのが現実なのだ。優位にスタート地点に立てた人間は、そのことを知らなくてはならない。アメリカに生まれるのか、イラクに生まれるのか、チェコに生まれるのか、スウェーデンに生まれるのか、台湾に生まれるのか、ジンバブエに生まれるのか、チリに生まれるのか、タイに生まれるのか、エチオピアに生まれるのか、日本に生まれるのか。。。為政者はもちろん、お金がないと選挙に出られない現代社会では、そのチャンスに恵まれたことを意識することもなく、権力を握る。大企業から献金をもらい、その見返りに大企業に優位な経済政策をし、「持てるもの」がより生きやすい社会を作る。「持てるもの」は「努力のおかげ」で得た財産を独り占めする。自分が高校にやっと行けるような家庭に生まれ、専門学校にも行かずに就職し、正社員で入った会社で数年後に入ってくる大卒新卒者との給料の差を目の当たりするような人生があったとは夢にも思わない。

全ての始まりは運である。この不平等を是正する為に、日本国憲法でも健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利が認められている。権利が認められているということは、政府はそれを保証する義務を負う。国民に権利を認めるには、そのチャンスを提供できなければいけないからだ。

為政者たちよ、おめでとう。あなたはお金と権力を持てる星の元に生まれてきたのだ。不平等な世界に、平等なチャンスを与え給え。憲法13条に保証される幸福追求権を保証せよ。一部の人が富を独り占めした社会は、やがて購買欲が落ち込み、企業収入が落ち込み、投資が冷え込み、利率も下がり、物流が途絶え、国の経済は回らなくなる。あなたの命は、社会の全ての構成員と同等に輝かしいことを知れ。