いっぱい泣いた日に

大人になったら自信は勝手についてくるものだと思っていた。

体も大きくなるにつれて、心もきっと成長するものだと思っていた。

 

中学生の頃に書いた日記を読み返してみれば、その頃の素直な疑問が今の自分にまっすぐに刺さったりする。

「どうしてお母さんは周りの目ばかり気にしてるんだろう。もっと堂々としたらいいのに。」

中学生の時に買った青い星空の日記帳は、その頃は知らないことが多い分、今となっては忘れてしまっていたり、新鮮だったりする言葉が書いてある。

 

ある人は言う。

「考えすぎだ。考えすぎたり、感じすぎることは、悲しさや寂しさを増したりする。」

合ってるとは思うけど、私は悲しさや寂しさをうんと感じてしまって生きてきたから考えながら、考えすぎながら、これからも生きたいのだ。

 

どんな言語を話そうと、考えが言葉のまま通じる相手と、きちんと相手のわかる言葉で伝えなければ分かり合えない相手がいる。

 

私は前者を離れ、今いる人は説明して一生懸命分かりあっていかなければならない。

それでも私は泣きながら、ゆっくり説明していこうと思う。

今は思いがそのまま通じる人とも、長い時間をかけてこういう関係性になれたのだから。

 

先月、手紙をもらった。

とても、綺麗な素敵な日本語で書かれていた。字も言葉も表現も内容も。

15年の付き合いの中で、色んなことがあった。

私は彼に恋をしたし、それが彼に届かないまま素敵な友達になれたし、多くを語って、時間を共有して、泣き顔を見せて、笑顔を見せ合って、そうやって私たちは言葉を考えをそのまま相手が発したままをバイアスなく受け取れあえるようになったのだと思う。

私が日本を離れて彼は、私の存在に気付いたようだった。

「男の人はみんなそうだ。いなくなってから大切さに気付く。」

そう思ったのは一度ではなかった。

 

今までに唯一振られた人。思いがすれ違った人。

 

暮らしの中で、辛いこと、悔しいこと、上手くいかないことがあって、でもそんな日々は美しい。と彼は言った。

 

きっと、今、一生懸命分かり合おうとしている愛しい人との日々も美しいのだろう。

私は、戻っていくよりも、新しいものを見ていくのが好きだよ。

目の前にいる愛おしい人を一生懸命愛したい、とそう思っている。

 

「考えすぎだ。」ではなく、「そう感じるんだね。」

と言われるようになるまで、私はぶつかっていく。

自信のなさをさらけ出せる相手に、少しづつ感じてもらえるように。